「確信」の定義に関連して

とあるブログのコメントには、「確信うんぬん」については

もう書いてはいけないようなので・・。

確信を「自己の意識上の明らかな自覚」とでも定義して

しっかり意識して認識していてもらわないと、

「阿弥陀仏によって間接的に知らされることを自分は確信と言ったのだ」

などど、あいまいな言葉でごまかせてしまうと思いました。

本人が、なにかしらの「ハッキリ意識できる自覚」をもって信心と

言っているのは明らかなのですが、言葉にしていても、無意識に

自明のこととしていて、自覚せずに発言していることもあると思います。

傍から見れば言動にその大前提にしているところがハッキリわかっても、

本人がしっかり自分の言動の大前提を意識していないと、

せっかくつっこまれても自覚が薄く、ごまかして逃げてしまうような

印象がありました。

こういう人相手に、根拠を挙げて同じ話を繰り返される方のお姿は、

浅ましい田舎の人にも何とか分からせようと何回もお手紙を出された

親鸞聖人と重なって、私は深い感動とともに、ただただありがたく

感じておりました。

「わかるか?わかるか?まだわからぬか?」と心に迫ってくるようで、

手を合わせたい気持ちで読んでおりました。

自分にはとても真似できない、菩薩のような志と実行力と根気。

仕事に出かけているうちに、コメントを書く場面が無くなって

しまいましたが、この場を借りて一言。

ハリケーンさん、ありがとうございました。  南無阿弥陀仏  (m)

夜行バス

ディズニーランド行きの夜行バスの事故は大惨事でした。

繰り返される事故現場の映像に、大学時代よく乗った、親鸞会の

聴聞バスを思い出しました。

当時、月に13日、全国各地で高森会長の説法がありました。

広島、京都、志賀、富山、石川、福井、遠くは九州まで、本会の

聴聞バスに乗って出かけていました。

大体は深夜発で早朝に着く運行。

車両部の運転手の方は一人がほとんどでした。

富山から迎えに来て、夜通し運転し、翌日聴聞。

帰りも運転して送り届けてから、また富山に戻る。

学生ながらも、運転手は何て大変なんだろうと思っていました。

夜中、蛇行運転になることもしばしば。

眠りの浅い私は、事故を起こされたら大変(!)と内心ドキドキ。

運転手の後ろの席が多かったので、時々後ろから運転手に声を

かけたりしていました。

バスは自家用となっていたので、規制の対象外だったのでしょうか・・。

運転手の使命感もあって事故はなかったと思うのですが、今考えると

いつ大事故がおきてもおかしくなかったと思います。

実際疲労で高速道路を逆走し、亡くなられた講師もおられたのですから。

無理することが、宿善を厚くして救われる道と教えられ信じていたのですね。

愚かとしか言いようが無いのですが、そんな者にも南無阿弥陀仏の

お慈悲はずっと届いていました。

なつかしくも、悲しい思い出。  南無阿弥陀仏。 (m)

白道

この目にも見えず、この耳にも聞こえない本願の仰せが

なぜだか間違いないと知らされて、

危なげなくて、たのもしいいんです。

「本願を聞いても何だか頼りなくて・・」と言った方がありましたが、

それは本願の仰せを聞いていないのです。

煩悩具足の自分は、いい加減でふらふらしていて、日々欲に追われ、

愚痴ばっかりだけれど、

一度白道に乗ったならば二河白道の例えの如く、煩悩は何も変わらないのに

危なげない白道が知らされます。

不思議な事なのですが、足元は見えなくてもしっかりしていて頼もしいんです。

善導大師の譬え話が、リアリティがあってありがたいです。

他力信心をうまくあらわされていると感じます。 南無阿弥陀仏 (m)




”恨み” と ”真の安住”について

安心問答のコメント欄に

『恨みからは真の安住は得られないことを銘記せねばなりません。』とありました。

”真の安住”を、阿弥陀仏の救いという意味で使われているのならば、(文章の

流れからそう読めたのですが・・。)コメントを書かれた方は、

”恨み”という煩悩と、”真の安住”(信心)とは関係があると思っておられる

のだなと感じました。

真の安住は阿弥陀様から回向されるものであり、恨みが有るとかないとかは関係ない

ですよね。

   浄土真宗に帰すれども  真実の心はありがたし

   虚仮不実の我が身にて  清浄の心も更になし  (親鸞聖人)

煩悩具足の我が身を知ったならば、

『恨みからは真の安住は得られないことを銘記せねばなりません。』などどいう言葉は

出てこないと感じました。

とはいえ、もちろん恨むことは苦しいことですので、『恨まないようにする努力は

大切』だと思います。

煩悩に妨げられない信はありがたいです。   (m)


お念仏

お念仏は、時を選ばす場所を選ばす出てくださる。

階段を下りながら南無阿弥陀仏。

洗濯物を干しながら南無阿弥陀仏。

テレビを見ながら南無阿弥陀仏。

運転しながら南無阿弥陀仏。

なぜこのタイミングでお念仏なのかって・・?考えてもよくわからない。

でもリラックスしている時ほど たくさん出て下さる感じ。

お念仏は阿弥陀様からのプレゼント。

ふと出るお念仏に阿弥陀様を思い出し、世間ごとで頭がいっぱいの浅ましい

我が身が申し訳ないやら、お慈悲がありがたいやら。

煩悩具足の汚いものから、どうして清らかなお念仏が出てくださるのか。

阿弥陀様のお慈悲が極まっていると感じる。

尊い南無阿弥陀仏。  (m





浄土宗

お客様のお通夜に参列した。

点滴だけで1年半、何回か入院を繰り返しながらもずっと在宅介護で

最後は奥様と娘さんの見守られる中、静かに息を引き取られた。

その方への4年間の関わりの、一つの区切りとしたくて参加した。

読経は、観無量寿経。何回も仏壇を見ていたが気づかなかった。

浄土宗だったようだ。(日蓮宗だと思っていた。)

僧侶が「〇〇さんが、極楽浄土へ行かれるように願いを込めて

皆さんで10回南無阿弥陀仏と称えましょう。」といい、全員で称名念仏。

和讃のようなものも読まれ、正念で念仏するものを阿弥陀仏が菩薩を引き連れ

迎えに来られるという話があった。

南無阿弥陀仏を称えさせて頂くご縁がとてもありがたく感じつつも、

(阿弥陀様は、たとえ臨終にどんな思いでどんな状態でいても関係なく

極楽浄土へ連れて行って下さるんだけどね!)との思いがふつふつ。

南無阿弥陀仏のお力で往く旅はとても気楽なもの。  (m)


法輪(ほうりん)のなんとか

S 会の結成25周年記念大会で上映された「法輪のひびき」というスライドがありました。
その後ビデオ化されて幾度と無く上映されたので、ご存知の方も多いはずです。
その中に、ある宗教団体との法論のくだりがあります。

個人宅での法話の最中に言いがかりを付け乗り込んできた宗教団体があり、
「君たちこそ、他人の家に上がり込んで大切な法話を妨害するとは何事か、
言いたいことがあるなら法論で決着をつけよう」
その後その宗教団体は法論に応じて、S会の勝利で終わった。


事の真偽は知りませんが、確かこんな内容だったと思います。

それにしても最近似たようなことが有りましたね。例のスライドを思い出しました。
勝手に押しかけてきた非常識さや、事の経緯はそっくりです。

でも、違うところがあります。
その時の宗教団体は法論に応じています。(応じたことになってます)
仮にも宗教を名乗るからには当然でしょう。

もうひとつ、今回やってきたのはS会のれっきとした幹部です。
一人は弘宣局長と言うS会の広報の責任者であり、もう一人は講師長です。

その2人が「法論の件はどうなったか」と聞かれての答えが「検討する」なのですから
呆れてしまいます。別に期待はしてませんが、情けないものです。

その後「検討」した結果を知らせてくる訳でもなければ、
法論の申し入れの書面を受領したかどうかの問いにも反応しない。
これが彼らの実像なのです。

彼らには宗教がどうのとか、ましてや仏教云々と言う以前に
まず人間性を取り戻すことが必要ではなかろうかとつくづく思います。
(P)
プロフィール

Author:ぶりぱぱ&まま
少し前に親鸞会を卒業しました。
会員歴は長い部類と思います。
連絡先:burimama18(Gメール)

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