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恩人その1

聴聞していてもどうもはっきりしない。

何か大事なところを聞き誤っているのではないか・・と悶々としていた一昨年。

たまたまネットで見つけた安心問答は、インターネット界のダイヤだと感じました。

山も山さんには、わからなかったことをどんどん質問して、全部答えて頂きました。

安心問答に出会えた喜びとご恩は、計り知れません。

同じことが気になって、どうしても聞きたくなって、同じ内容と自覚しながら 何回も質問しました。

見捨てられて当然だと思っていましたが、あきれ果てられることもなく、繰り返し回答して下さいました。


阿弥陀仏のみ心が分からなくて、「私だけは救われない。」と不安が募っては電話をしていたK先生。

いつも明るく元気よく、阿弥陀様のお心をお話し下さいました。いっぱい励まして下さいました。

夜中に、煮詰まってしまって電話した時も、真実信心について書かれた本を受話器越しに読み聞かせ、

解説して下さいました。延々1時間以上。

「いつ電話してきてもいいよ。どんな内容でもいいよ。」と、いつもおっしゃって下さいました。

そのお言葉に甘えて、気が滅入る時、諦めそうになるときにも、お電話させて頂きました。

ありがとうございました。

そして妙好人のHさん。3行の質問メールにも、A4サイズ1枚分びっしり細やかにていねいに

答えて下さいました。一言一言もれなく、気づくことはすべて教えて下さいました。

電話でも、遠慮なくいっぱいお話しました。気さくでやさしくて、お姉さんみたいな方。

とても頼りにしていました。

そして学生時代の恩人、Kさん。変わらぬ迫力と、長期的視点に立った縁の下の力持ち。

こういう人がおられるから、真宗は脈々と受け継がれてゆくのだと感じました。


どういう因縁かはわかりませんが、本当にありがたく思っています。

大変お世話になりました。ありがとうございました。    (m)
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くっついてる?

合間に、はっと気づくと お念仏が頭の中を流れている。

お聖教を読んだり、何か仏教に触れるご縁があると、口からお念仏がぽろぽろっと出てくる。

感情が大きく動くとき、なぜかお念仏も連動して増える。

南無阿弥陀仏がくっついて離れない!と感じる。

何で?  そういうものなのだろうか・・?

『摂取して捨てず』

いつでも、どこでも、阿弥陀様がご一緒なのですね。離れられないのですね。

本当に不思議です。なむあみだぶつ。       (m)

お礼

今日は色んなことがありました。

月末なので、朝からお客様の訪問&介護プラン配り。更新の書類も確認して預からないといけない。

そんな中・・受診されていたご利用者さんが急変し亡くなられました。

午後から、子供の学校の行事で4時間半。

夜は、ここ何日か急激に食事がとれなくなった方の往診の立会い。

主治医と家族と一緒に今後の見通しと介護プランについて話し合いました。

明日は下の子の運動会。上の子も部活で6;30にでるという。

いつも予定を立てて、時間を逆算して動いているし、何かあっても大丈夫なように、早め早めに対応しているつもりだけれど、

予定外のことが立て続けに起きてくるとバタバタになってしまう。

阿弥陀様のこともすっかり忘れていました。

ちゃんと勤行しないといけないんだけど、今日はお念仏だけでいいにしてもらおう。

阿弥陀様はいいよと言って下さるので。お言葉に甘えまして。南無阿弥陀仏。

(ブログ書く間にできるでしょ!横着者!というつっこみはなしでお願いします。) (m)

法華経

町内で急な不幸があり、組長なので お通夜と葬儀の手伝いに出た。

日蓮宗。法華経の提婆達多品とか如来寿量品とかが詠まれていた。

「皆さんで花を手向けて、亡くなられた方の無事な旅立ちを祈りましょう。」との言葉で、

棺に花を供えた。

題目を唱えると、題目が三途の川を渡す舟となると言う。

行き先のわからない方は、花を手向けて祈ってもらっても、題目を唱えても、不安だろうな・・と思う。

浄土真宗では、既に阿弥陀様の方から「必ず極楽へ往生させる」との申し出を戴いているから、

「どこへいくのだろう」という心配はない。

念仏は阿弥陀様の「間違わさぬ」との、お呼び声。

法華経は方便の教え。その家に生まれたならば、方便の教えに染まっていただろうな・・。

浄土真宗の家に生まれ、南無阿弥陀仏とご縁があって本当によかった、としみじみ感じた。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏     (m)

宿善

宿善

以前(相当昔です)は盛んに宿善を積むという言葉が使われ、コップの水がいっぱいになってあふれることが宿善開発だと聞かされました。
そのうちに「積む」という言葉は不適切だから、厚くするという言葉遣いにしなさいとなりました。

教学聖典(5)-28には宿善が厚くなる順として

 (1)熱心な聞法
 (2)五正行の実践
 (3)六度万行の実践

と記述されています。

ところがこの宿善という言葉自体が、少なくとも15年間ぐらいは説法において殆ど聞かれなかったように思います。
理由は分かりませんが、おそらく会長自身が自分の宿善論に問題があることに気付いたからではないか、と想像しています(あくまで想像です)。

そこで修善を強調するために考え付いたのが、「三願転入の教え」を実践しなければ誰一人救われないという論理です。
つまり、宿善の代わりの修善を勧める論理を考え付いたのです。このことは想像でなく、会長自身の発言であることは確認しています。

初めに修善の勧めがあって「三願転入の教え」をその為に利用しているということです。

ところが、「三願転入の教え」の論理を押し進めたことにより”教え”に整合性が取れなくなって来ています。

「三願転入の教え」ではまず19願で勧められる善をすることが最も大切になります。

仏法は聴聞に極まるといいながら、「三願転入の教え」から出てくるのは、まず修善なのです。

宿善が厚くなる1番は熱心な聞法のはずなのに?、2番も五正行の実践のはずなのに?
そもそも救われるのに時間がかかるのでは?

ある日の説法で「聞いたダケではだめですよ、実践しなければ進みませんよ」と聞かされたとき、聞いただけとはどういことかと叫びたくなりました。

私は会員のときは、先生はずっと一貫して変わらない教えを説いていると信じていましたが、それは違っていたのです。

「三願転入の教え」を正当化しようとして、根本が変わってきてしまっていませんか?

(P)

上司のお誘い

最近、車をこすったり、転んだり、駐車違反キップを切られたり、風邪ひいたり。

トラブル続き(?)を心配してくれた上司から・・

「娘と今度〇〇神社におはらいに行くんだけど、一緒にどう?何回か行ってるけど、すごく効果があるのよ。」とのお誘い。

(単にいつも慌てているのが一番の原因なんだけど~。おはらいなんてしてたんだ!)と思いつつ、

「ありがとうございます。でも、うちは浄土真宗だから神社には行かないんです。神棚もないですし。」と、答えると、

「あら、うちも浄土真宗だけど、神棚あるわよ。神社も行くし。」との返事。

「そうですか~。仏壇と神棚が一緒はよくないみたいですよ。私は神社とは縁がないですね。」

「そんなことないでしょー。よく一緒に置いてあるわよ。」

同僚が別の話題を出したので、話は別の方へ流れた。

ああ、神社には行かないと、はっきりと言えてよかった。

でも、心配して言ってくれているだけに、気を悪くされてないといいけど・・。

言い方って難しい。ついストレートになってしまう。

心配かけないように、あわてないようにしなくては・・!!

気を付けます。               (m)

転んだ

石の階段を降りるとき、4段目から踏みはずし、前方に転倒・・。

幸い骨折はなく、足に3箇所の打撲と擦り傷で済んだ。

目撃していた同僚から「高い位置から頭から落ちたから、絶対骨折したと思ったよ。」と何度も言われた。

自分でもよくこんな軽症で済んだな、と思う。骨折しなくて本当によかった。

介護保険のご利用者さんには「転倒には気をつけてね!骨折がきっかけで寝たきりになったら大変だからね。」

と、いつもエラソーに言っている私。

骨折までには至らない打撲をする人はけっこうおられて、その打撲のあとを見ては、

「大丈夫ですか?打撲で済んでよかったです。」などと気軽に声かけしてました。

事故は思いがけず一瞬に起きるものだとしみじみ。そして打撲は痛いものだな・・と。

これからは、もっと心を込めて言います。もっと痛みに共感できると思います。

色々、反省することしきりです。

(こんなときに限って主人は出張中でいないんですよね~。まあ、そんなものですが・・。)(m)

名体不離

阿弥陀様は名号とひとつだから、

念仏を称えると、阿弥陀様はそこにおられる

私の称える念仏だけど、

阿弥陀様が呼んで下さるお声

なむあみだぶつ     (m)

風邪

久しぶりに 風邪をひきました。。

頭がどんより重くて仕事にならないので、午後の途中で早退。

横になりながら、あれこれ考え出します。

人間関係、自分の言動、他人の言葉・・、頭も心もぐちゃぐちゃしてきます。

頭の中を念仏がさらさらと流れてゆきます。

「煩悩のどろをどれだけこね回したって、どろでしかないよ。」

南無阿弥陀仏が 軽やかに笑っておられるような気がしました。

『そらごと、たわごと、まことなき身と知れ』  

なむあみだぶつ なむあみだぶつ なむあみだぶつ ・・   (m)

念仏

『斯様に思い取りての後は、「ひたすら弥陀如来のやすく御助けにあづかるべき事のありがたさ、また尊さよ」

と深く信じて、寝ても覚めても南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 と申すべきばかりなり』
                     (御文章 五帖目第十七通)


このように信心を決定したのちは、たやすく阿弥陀如来のおたすけにあずかれることの、

なんとありがたいこと、尊いこと、とひたすた深く信じて、寝ても醒めても、どんなときにも、

ただ、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」とお称えなさい。
                   (蓮如の手紙、浅井成海 監修)

蓮如上人がそう言われるので、お念仏を称えようと思います。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 ・・・     (m)


 PS:素敵な本をありがとうございます。読む度に感謝しております。

コミュニティ

コミュニティについて思うこと

最近発行された「正定聚」という冊子を見ました。
内容は”三願転入の教え”についてで、殆どが過去の新聞や顕真のからの引用です。
驚くのは御聖教の言葉が殆どないことです。以前と比べても教義の変質には驚かされます。

今読むと、「何だこれは」という内容なのですが、そこに何年何月の記事と載っています。
5年前ぐらい前から繰り返し、同じ事が書かれています。間違いなく会員であった自分が読んでいたはずです。
しかし覚えていないのです。違和感なく読んでいたということです。

中にいてどっぷりとその雰囲気に浸かっていると気付かないのです。

その中幸せにも自分は脱出することができた。これは不思議なことです。

現在会に残っている人とそんなに違いはありません。

彼らは本来は仲間であり、友達です。仇ではありません。

mixiにしても、いろいろと問題はあるものの、ある程度の公開の場で教えについて話ができる場というのは貴重だと思います。

少しでも長続きさせたいですね。


南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
(P)

惚れた弱み

阿弥陀様をお慕いする気持ちが強く起きてくることがあります。

そうすると、恋しくて、恋しくて、せつなくて・・、お念仏を称えます。

死にたくはないけれど、浄土に生まれて早く阿弥陀様に直にお会いしたい、と思います。

「念仏称えて、極楽に生まれておいで」と、呼んで下さいます。

お慕いしていますもの。断る理由がありません。

だけど、惚れた弱み・・というのか、立場が弱いです。(もちろん阿弥陀様は自他の区別はされないので、立場などないのですが・・。)

すべての人は平等であり、対等であるという私の根本的な考え方があるのですが、

阿弥陀様にだけは、頭が上がらないのです。それがちょっとくやしい・・。    (m)

ゴミ

ゴミは捨てられます。

役に立たないから。

生きるということは、悪を造り続けるということ。

生きている価値などない、と思います。

そんな価値のないものを、阿弥陀仏は ”かわいい”と言って下さいます。

そして ”極楽浄土”をつくられて、 ”あなたの為につくったから、極楽へ生まれておいで”と、呼んで下さいます。

捨てられて当然なのに、捨てられないのです。

ゴミを大切だと拾われる・・珍しいお方。

ありがとうございます。 南無阿弥陀仏。            (m)

mixiでの議論3

獲信の因縁

「獲信の因縁」という言葉の定義を、何度も尋ねた理由。

『本願寺なぜ答えぬ』では、「修善は獲信の因縁にはなるが、往生の資助にはならない」
何度も書かれています。
もちろん「修善は往生の資助になる」と書いてしまったら、浄土真宗ではありません。

「修善は獲信の因縁になる」ということと「修善は往生の資助になる」ということとの違いは何でしょう?
「修善は獲信と良い関係にある」とも言い換えられています。

獲信した人は必ず往生できますので、修善が獲信に有効に作用する(よい関係である)ということは、修善が往生に有効に作用するということです。それを、足しになるというのではないでしょうか?
資助とは、足しになるということですから、「資助になる」と「因縁になる」とは 同じことじゃないのか・・?

親鸞会の会員は一度はこの疑問を持ったことがある人が殆どだと思います。
私(P)も長い間この疑問を持っていました。

でも違うと言われるから何か違いがあるはずだとか、違いはよく判らないがとにかく善をするしかないんだとなってしまっていました。

「獲信の因縁」≠「獲信の因」だそうです。
意味不明です。

結局、「獲信の因縁」という言葉を使うことで、その言葉本来の持つ意味をイメージさせつつ、その言葉の定義をしないことによって、聞いた人が何か深い意味があるに違いないと思うように仕向けていた。それだけのことではないでしょうか?

そのことを皆さんに気付いてほしかったのです。

似たような事が
「善をしなければ信仰は進みませんよ」「信仰が進まなければ救われませんよ」
という言葉でも言えます。
信仰という言葉を、定義をしないで使っているのです。

「善をしなければ救われませんよ」ということとどこが違うのでしょう?

「信仰」という、意味不明な言葉を入れることによって、何か深い意味があるに違いないと思わせ、救いに必要だと思わせているのです。


(P+m)
プロフィール

ぶりぱぱ&まま

Author:ぶりぱぱ&まま
平成21年に親鸞会を退会しました。
会員歴は長い方と思います。
連絡先:burimama18(Gメール)

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