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善は救いとよい関係?

mixiでこうへいさんから頂いた返事。

>”獲信の因縁になる(救いとよい関係にある)ものであった”
>”どんな小さな善もすべて獲信の因縁であった”という心は、
>廃るのではなく、反対で、一念で救われてからずっとあります。
>(ここで因縁とは、役に立つという意味ではありません)

「どんな小さな善も、救いとよい関係」
「どんな小さな善も、救いと悪い関係」
「どんな小さな善も、救いと無関係」 との違いは何か?

「この食物は健康とよい関係」
「この食物は健康と悪い関係」
「この食物は健康と無関係」という例で考えてみた。

健康と無関係=健康に影響がない=食べても食べなくてもよい
健康と良い関係=健康に良い影響がある=健康に役立つ=食べたほうがよい
健康と悪い関係=健康に悪い影響がある=健康に害がある=食べない方がよい

どんな小さな善も、救いとよい関係
=救いによい影響がある
=救いに役立つ(役立たないなら、無関係ですよね!)
=善をやったほうよい

善知識方は、”雑行を捨てよ”であって、”諸善を捨てよ”ではありませんが、
”救いとよい関係にある善”は”雑行”であり、捨てものですよね・・。 (m)
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追想

福祉用具事業者のSさん。個人経営に近い事業所。

何回も営業に来てくれるので、”試しに”と一件お願いしたら・・。

ツーといえばカーという感じ。

話が早い。仕事も早い。

歩行の不安定なお客様に合う福祉用具はないか?と何気なく聞いたら、

経験と知識を元に色々提案してくれた。

住宅改修は、通常、打合せし事前申請から許可が降り、実際終了するまでに

1~2ヶ月はかかる。

ところが・・、初回打ち合わせから、わずか2週間強で終了。

几帳面で、器用で自分でやれてしまうその方は、早い・安い・正確の3拍子。

いっぺんに気に入ってしまい、それからは福祉用具や住宅改修は、どんどん

お願いするようになった。

ところが・・知り合って1年。体調不良で「急に入院することになった」と挨拶に

来られ、3週間後に退院されたものの、入院からわずか2ヶ月での訃報となった。

59歳。仕事に乗りに乗ったベテランの働き盛り。

お焼香に伺い、遺影をみながら、つくづく思った。

もっともっと一緒に仕事がしたかった。

短い期間だったけれど、とても信頼していた。

ご本人も、無念だったに違いない。もっともっと仕事がしたかっただろうな・・。

夢枕にも2回ほど現れて、青い顔で「仕事がしたい」と言われた。 

亡くなられた事が、本当に残念です。

本当に仕事のできる人でした。 合掌   (m)

「いつどうなってもおかしくない。」と、医師から言われて かれこれ一年。

今日は顔色もよく笑顔で、一言だけど声も出た。

鼻管栄養、膀胱ろう、胃切除、ペースメーカー装着、ガン転移、腸は既に拡張し、

排便はチューブを挿入し、注射器で吸引して出している。

訪問看護が24時間緊急対応で入っており、月に3~4回は(週2回の定期訪問以外に)

緊急出動している。

訪看さんの連絡で、主治医もすぐ往診してくれる。3日連続になろうと、月に6回になろうと

「いつでも連絡して」と言われる。(もともと月2回は定期往診)

これ以上患者が増えると、緊急時に対応できないからと、往診患者数を制限している。

デイサービスに行くこともある。身体の拘縮で車いすに乗れないその人のために、

スタッフ3人が、リクライニング車いすと玄関スロープ持参で、お一人様用に別便で

迎えに来てくれる。鼻管栄養も、痰の吸引もしてくれる。

奥様自身、体調が万全ではないが、ご主人にずっと付き添って世話をしている。

週1回の訪問入浴は、ご本人の一番の楽しみ。

3人のスタッフが、寝たままで、手際よく丁寧に入浴させてくれる。

(熱が出ていませんように・・!)

ヘルパーも笑顔で声かけしながら、おむつ交換。

たくさんの人の愛情に支えられ、長らえている命。

その人の今の命が、今日の笑顔がありがたい・・。

奥様のためにも、1日でも長く生きてほしい。がんばってほしい。

介護の世界は、愛情にあふれている。利害だけでは続かない。

そういう方達の姿をみて、私自身もいっぱい励まされます。

本当にすごいなと思うし、身を正される思いがします。

”人間にはまことの善などできない。”とは、軽々しく言える言葉ではないし、

だからこそ、まことの善をなされた阿弥陀様の尊さは、想像も及びません。

なむあみだぶつ なむあみだぶつ なむあみだぶつ   (m)

法友

今日 地元でご法縁を頂いた。

同じ支部だった法友5人で、じっくりお話を聞かせて頂けた。

親鸞会の間違いに気づき、こうして再会して 共に他力廻向の法を聞かせて頂ける不思議。

阿弥陀仏のお働きが、私たちをご法座に呼んでくださったのでしょう。

そして、思うことは同じ。

(まだ教義のおかしさに気づかず残っている方たちにも、早く気付いてほしい・・!)


ご法座の内容は、真実信心についての話ばかりでした。

最初から最後まで、何でこんなにありがたいのだろう・・!と、自分ながら不思議でした。

教えに呼応して南無阿弥陀仏がよろこばれるのでしょうか。

また、一緒に聞かせて頂けたらいいな・・と思います。

(人前だと恥ずかしくて、念仏を我慢している私です。阿弥陀様、申し訳ありません。)

南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏     (m)

感動

S会在籍時、親鸞聖人のお言葉と親鸞会で教えられることと、何かが違うと感じ、

それがご縁となり、『安心問答』を見つけ、はじめてS会から1歩出ました。

それまでは、S会以外は十劫安心か土蔵秘事であり、善知識は世界中で高森先生

唯一人と思い込んでいました。

なので、地元のご法座でご縁のあった方が、「この本はいいですよ。今度

テレビでこんな浄土真宗のお話があるよ。」と勧めてくれても、生返事で、

実際見てみよう、聞いてみようという気持ちは全く起きませんでした。

S会以外に、高森先生以外に、正しい教えを説くところはないと思い込んでいたのです。

しかし、1歩出てみたら、全然違いました。

親鸞会の教義が、いかに親鸞聖人の教えと かけ離れてしまっているか・・。

そして、信を獲て、法施をされている方がたくさんおられることがわかったのです。

情報化時代。本、CD、DVD、ネット、法話など色んな形で真実信心が教えられていたのです。

学ぶほどに、阿弥陀仏の他力廻向の法のすばらしさ、尊さがあふれてきて、感動!感動!

教えに触れることは、大きな喜びであり、楽しみです。ありがたいです。

1歩踏み出すことで、世界が一変しました。

南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏    (m)

なんか変 其の2

足場

親鸞会でよく聞いた話に「足場」のたとえ話があります。
講師部員もよく使っていました。

建物を造るときには、まず足場を作る(実際には違いますよね)。
その足場は建物が完成したら必要ないから撤去する。
だが、それは足場が必要ないということでなく、建てるまでは必要なのだ。
こう言うのを方便というのだ。方便からしか真実に入れないのだ。

確かこんな話だったと思います。これもしっくり来ませんでした。
なんか変だったのです。
似たような喩えが他にもあります。

「3階を造るのには、1階2階が必要。3階だけが欲しいと言っても無理」
「ぼた餅食べて5個めで満腹したからと言って5個めだけ食べても満足しない」
「2階に行くには階段が必要」--これは割と最近

「でも、方便が間に合って救われるんじゃないのです。
ここを聞き間違ってはいけません、聞き分けてください」と言うのです。

しかし、普通に考えれば「足場」が建設に必要であることを表しているに過ぎません。
「修善は往生の資助にならない」といいますが、この場合の足場は間違いなく建設の「資助」になっているのです。
聞き分けるものなど何も無いのです。
自力いっぱいに善をして自力無功と知らされるのならば、彼らの言う自力が間に合ったということになります。

私が親鸞会と訣別できた最大の理由は、この「聞き誤り」「聞き分ける」という言葉の呪縛から抜け出すことができたからです。どれだけ聞いてもそこには何もないのです。
そしてそれは浄土真宗の教えとは違っているのです。

親鸞会の皆さんはせっかく浄土真宗とご縁があったのですから、正しい御法義に触れてみてください。
親鸞会でしか真実聞けないというのは、全くの思い込みです。

なむあみだぶつ。なむあみだぶつ。(P)









現在進行形

阿弥陀仏のお呼び声が聞こえたその時に、心が大転換して、晴れ晴れとした大安心の心

に変わるのだ、と思っていました。

”聞いて助かる”と思っていたのです。

”聞けた”という時があって、その過去の時点から心がガラッと変わるのだと・・。

ところが・・『聞其名号』の ”聞く”は、常に現在進行形だったのです。

煩悩の雲霧に覆われた中に、常に「必ず助ける。我にまかせよ。」と、

阿弥陀仏が呼び続けて下さいます。

そのお呼び声が、南無阿弥陀仏が、常に今 私に、聞こえて下さるのです。

”聞く”は現在進行形だったのです。  なむあみだぶつ なむあみだぶつ (m)

大衆の中に

『 衆のために法蔵をひらきて、広く功徳の宝を施せん。

  つねに大衆の中にして、法を説きて獅子吼せん。』  (大経上巻、重誓偈8)


阿弥陀仏は、遠くから指示など出されない。遠隔操作もされない。

”つねに大衆のなか”で、直接私に向かって法を説かれる。

真正面から向かってこられる。

迷妄の暗闇の真っ只中にやって来られて、目の前で、まん横で、大声で叫ばれる。

「南無阿弥陀仏。必ず助ける。我にまかせよ。」と。

だから、聞く気のない、長い長い間ぼけーっとしていた私にも、聞こえてくださった。


勤行の度に、重誓偈を拝読している。

この「大衆の中にして」のお言葉に触れると、このお心あればこそ、

この重ねてのお誓いがあればこそ、私に届いてくださったのだと感ずる。

私のために、来て下さったのです。ありがとうございます。

なむあみだぶつ なむあみだぶつ なむあみだぶつ。  (m)

間違い

進行性の難病の人。

ヘルパーが来る前に、いつも3時間かけて自分ひとりで着替える。

ヘルパーに手伝ってもらえば、10分もかからない。

そうすれば、2時間50分を何か楽しめるものに使えるのに・・。

「うまく歩けるようになりたい」と毎日訪問リハビリ。

でも、実際は病気はどんどん進行して、色んなことができなくなってくる。

現実の病気を受け入れられないでいるのだ、と思っていた。

現実を受け入れて安全に安楽に過ごせる、そういうプランが正しいと思っていた。

けれども、私は、間違っていた。

たとえつらそうに見えても、もっと安楽に過ごせる選択があると思っても、

手足がうごかなくても、自分で3時間かけて着替えることが、その人の生き方。

病気を受け入れられているかどうかという視点ではなく、

希望を持ち、モチベーションを保ち続けていく、その人の強さ。

医者が「もう悪くなる一方だ」と診断していても、

本人があきらめていないのに、ケアマネがあきらめていてはいけなかったのだ。

”利用者本意”が、介護保険の基本理念。

ご本人の意思に寄り添う自立支援のはずなのに、自分の価値観を入れていた。

その人がどうしたいかが、最優先だったのだ。

誰のためのプランか!!と反省しました。  なむあみだぶつ   (m)

祖母

「○○ちゃん、横に寝に行ったげるで。」と、はっきりとした祖母の声。

(横って、私の横に寝に来るの?)

階段の下の方から足音。

(おばあちゃん、死んだんじゃなかったっけ・・?足、大変なのに階段大丈夫かな・・。)

そこで、ぱっと 目が覚めた。

ああ、 おばあちゃんが、私を心配して見に来てくれたんだ。

最近元気がないから、心配して見に来てくれたんだ。

究境憐愍の恩  死してなお、心配して下さるご恩。

ありがたさが心に沁みて、涙が流れた。

いつも心配してくれてありがとう。

大事に育ててくれてありがとう。

子供の頃、お菓子ひとつ買ってもらったこともないけれど、

いつも働いていた。心配してくれた。世話をやいてくれた。

祖母は私の原点であり、この世の中で誰よりも好きな人。

育ててくれた祖母に、恥ずかしくない生き方をしたいと思ってきた。

それなのに、忘れていて・・ごめんね。

おばあちゃん子で育った私は、結婚するまで祖母の横で並んで寝ていたのでした。

夢にまであらわれて、励ましてくれてありがとう!おばあちゃん。   (m)

価値

南無阿弥陀仏のお働きなのかどうかは分からないけれど、

自分には価値など何もないと感じる。

死にたくないから長生きしたいだけであって、

短命でも長命でも、生きていることそのものに価値などないと思う。

いや、生きれば生きるだけ、煩悩で色々思って、言って、行動して、ろくな事してない。

人間は知恵がある分、他の生き物を支配して、自分たちの都合で簡単に命を奪っている。

そんなものを、「必ず極楽浄土に生まれさせ、仏にしてみせる」と言って下さる。

阿弥陀仏の願いの中にのみ、私の存在意義がある。

価値のないものを「何より大切なもの」と抱きかかえて下さる。

価値のないものを「私にとって、あなたは大事だよ。」と。

本願がなければ真っ暗闇だった。

永久の闇を照らし続ける光。

本願を建ててくださってありがとうございました。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・     (m)

なんか変

何度聞いても今ひとつ分からなかったこと。

親鸞会時代に何回聞いても、もう一つ分からなかった事が有りました。
皆さんはどうでしょうか。

(1)因果の道理
交通事故の例は何度聞いたか分からないが、事故に遭う人とそうでない人の違いが
結局分からない。
因と縁の違いについて、喩えでは聞いていても明確な違いがよく分からない。   

(2)廃立
廃立の教えとは、聖道仏教は捨てなさいということと教えられる。
親鸞会でやろうとしている善と、自力聖道門の仏教でいう善がどこが違うのかよく分からない。
「阿弥陀仏に向かって」と言われても、どんな心か分からない。

(3)修善の位置付け
「往生の資助になる」と、「獲信の因縁になる」の違いが分からない。
   
(4)善とは何か
観経で善を勧められているではないかと言われるが、定善を何故勧めないのか。
散善についての説明も具体的な説明を聞いたことがない。
それ程大切な事ならば詳しく聞きたい。

(5)三願転入
自分は19願にいるのだろうか、それ以前の問題なのか。
三願転入しなければ救われないというのなら、これは重大な関心事ではないのか。
これで、いつ18願に辿りつけるのだろうか。

(6)本願力
全ては本願力の働きと言いながら、
「善をしなければ信仰は進みませんよ」と言われる。この関係はどうなっているのか。
本願力によって、善をせずにおれない気持ちにさせられるということだろうか。
   

これらの疑問について、会長は説法で答えてくれるはずだと思って聞きに行っていました。
しかし、答えは得られませんでした。当時は、もっと真剣に聴かなければと思っていたと思います。

結局この事について明確に聞いたことは一度も有りませんでした。
そのことから言えるのは、会長自身が答えを持っていないということです。

分からなかったのは聞き方が悪いのでは無く、”教え”がおかしかったのです。
なんか変はやっぱり変だったのです。

例えば(3)ですが、「往生の資助になる」と「獲信の因縁になる」は同じことですよね。


最近の座談会での内容を聞くことがあります。
会長が今までに無い変わったことを言って、会員が感動したということを聞きます。

無上甚深の功徳利益の「取引」
「すなわちが一念と知ることが重要」(歎異抄第1章)
「大宇宙の真理は因果の道理では無く、弥陀の本願だ」

何か変わったことを聞いて”感動したい”その期待がそんな話をさせているように思うのです。
そんな話で気を引こうとするようになってしまったのです。
会長に何かを期待するのはもう無理です。
はやく会長依存から脱却しましょう。依存体質から脱却出来ない会には見切りを付けましょう。

そして、阿弥陀仏に帰命しましょう。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。(P)


当然

親鸞会NETの「顕正新聞」の記事。

”無上の妙法は聞けなくて当然”と書かれていた。

その言葉は間違っている、と感じた。

”聞けなくて当然”ではなくて、”すべての人が必ず聞ける”です。

阿弥陀仏が、「必ず聞かせる」からです。

”聞けなくて当然”だなんて、本願のお力をどれ程だと思っているのか、と

腹立たしく感じました。

阿弥陀仏に対して、あまりに失礼でないか、と。

親鸞聖人は「億劫にも獲難いことを獲た」と書かれていますが、自分の力では獲られることなどない、

阿弥陀仏のお力だから、獲たということがあるのです。         (m)

去年の説法、2000畳

T会長:2000畳で 『 聞 其 名 号 』の 『聞』 を 指示棒で指して

 「聞くというのは何を聞くのか?仏教全体を聞くのです。仏教では何を教えられているのか? 

 因果の道理です。聞いておるだけではダメです。実行しないと。」

親鸞聖人:「聞というは 衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、

 これを聞というなり」(教行信証信巻)

何十年とT会長の話を聞いてきましたが、こんな説明をこのときはじめて聴きました。

今まで必ず親鸞聖人のお言葉を出されていましたよね・・。

親鸞会は、親鸞聖人の教えを説く会ではなくなってしまった、

T会長は、変わってしまった。

ショックを受けた出来事でした。      (m)

自治会、子ども会、婦人会、PTA。親戚・近所・親同志の付き合い。

結婚し子どもが生まれ、家を持つと人間関係のしがらみは急激に増加する。

ビンカン当番、廃品回収当番、公園掃除、自治会館掃除、川の一斉清掃、祭りの準備手伝い片付け

学校行事の手伝い、参観会、あいさつ当番、地区運動会、学校清掃活動、冠婚葬祭・・。

あっちでもこっちでも人付き合いばっかりで、疲れることもあるけれど(仕事もなぜか人相手・・!)

何回も顔を合わせて少しずつ縁が深まっていく。

会合の場でみんなで談笑しながら、ぬるま湯につかっているようなやわらかい親しみを感じる。

”これが業だな。”と思う。

人間は共同社会を形成して生きているから、自覚の有無にかかわらず、たくさんの人の

協力と助け合いの中で日々の生活が成り立っている。

一人孤島で離れて生きることなどできない。

そうして、笑ったり悲しんだり怒ったり喜んだりしながら、業を積み重ねていくんだな・・と思う。

諸行無常、会者定離、栄枯盛衰。親しみを感じるこの瞬間もやがては幻と消えていく。

このほんのり幸せな時間も続かない。 因縁和合して転変していく。

流転輪廻から抜け出せない私を、阿弥陀様が救いだして下さる。

”久遠の旧里は苦しくも懐かしいところ”・・この懐かしさが業であると感じた。 (m)
プロフィール

ぶりぱぱ&まま

Author:ぶりぱぱ&まま
平成21年に親鸞会を退会しました。
会員歴は長い方と思います。
連絡先:burimama18(Gメール)

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