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帰命

実家は浄土真宗大谷派の門徒。

月1回ご院さんが自宅に来て、仏壇の前で正信偈をあげていました。

祖母と妹と私の3人で、ご院さんの後ろに座り一緒に勤行。

「帰命~無量~寿~如~来~~~」

詠いながらも子供心に(帰命って何だろう、不可思議光って何だろう・・?)

と毎回思っていました。

(命を帰すってこの私の命かな?どこに帰すのかな・・。どういう意味だろう?)と。

そして親鸞会では「親鸞は助けられたぞ!救われたぞ!」との説明を受け、

「なるほど!!」と感動していました。

でも今はこの説明にちょっと違和感があるのです。

「自分は助けられたぞ!」と、自分に主体がある感じではなく、

阿弥陀様が主体で、阿弥陀様の方から私に向かっての救いなのです。

「阿弥陀仏に助けて頂きました。」

「阿弥陀仏(南無阿弥陀仏)をたよりとする身にさせて頂きました。」なのです。

私の側には、えらそうに「救われたぞ!」と胸を晴れるシロモノは持ち合わせがないのです。

阿弥陀様のお慈悲ひとつで助けて頂きました。 南無阿弥陀仏  (m)

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加茂和上の正信偈ご法話のCDでは、無始より迷える一人の凡夫ではあるが、いまはお慈悲一つに満足しておるぞという、宗祖自らの信心のよろこびがここにあらわれているのです、と説明されていたのを思い出しました。
あくまで阿弥陀如来の大慈悲が主体であって、衆生の側から得意げに「救われたぞ!!」と言うような事ではないんですよね。

No title

Rudel様
 コメントありがとうございます。
そうなんですか~。よく覚えてますね!

>あくまで阿弥陀如来の大慈悲が主体であって、衆生の側から得意げに「救われたぞ!!」と言うような事ではないんですよね。

全く同感です。
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ぶりぱぱ&まま

Author:ぶりぱぱ&まま
平成21年に親鸞会を退会しました。
会員歴は長い方と思います。
連絡先:burimama18(Gメール)

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