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mixiでの議論3

獲信の因縁

「獲信の因縁」という言葉の定義を、何度も尋ねた理由。

『本願寺なぜ答えぬ』では、「修善は獲信の因縁にはなるが、往生の資助にはならない」
何度も書かれています。
もちろん「修善は往生の資助になる」と書いてしまったら、浄土真宗ではありません。

「修善は獲信の因縁になる」ということと「修善は往生の資助になる」ということとの違いは何でしょう?
「修善は獲信と良い関係にある」とも言い換えられています。

獲信した人は必ず往生できますので、修善が獲信に有効に作用する(よい関係である)ということは、修善が往生に有効に作用するということです。それを、足しになるというのではないでしょうか?
資助とは、足しになるということですから、「資助になる」と「因縁になる」とは 同じことじゃないのか・・?

親鸞会の会員は一度はこの疑問を持ったことがある人が殆どだと思います。
私(P)も長い間この疑問を持っていました。

でも違うと言われるから何か違いがあるはずだとか、違いはよく判らないがとにかく善をするしかないんだとなってしまっていました。

「獲信の因縁」≠「獲信の因」だそうです。
意味不明です。

結局、「獲信の因縁」という言葉を使うことで、その言葉本来の持つ意味をイメージさせつつ、その言葉の定義をしないことによって、聞いた人が何か深い意味があるに違いないと思うように仕向けていた。それだけのことではないでしょうか?

そのことを皆さんに気付いてほしかったのです。

似たような事が
「善をしなければ信仰は進みませんよ」「信仰が進まなければ救われませんよ」
という言葉でも言えます。
信仰という言葉を、定義をしないで使っているのです。

「善をしなければ救われませんよ」ということとどこが違うのでしょう?

「信仰」という、意味不明な言葉を入れることによって、何か深い意味があるに違いないと思わせ、救いに必要だと思わせているのです。


(P+m)
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非公開コメント

何か深いものがあると匂わせて、実はなんでもないんですよね。
Pさんのような思考をすることを親鸞会では「観念の遊戯」と言いますが、会員こそ「善に励んでいけば後生に驚きが立つはずだ」と観念の遊戯をしていることに気づいていないと感じます。
この問題を棚上げして思考停止せずに、会員にはじっくり考えて頂きたいです。

Re: タイトルなし

淳心房様

「観念の遊戯」とか「聞き誤り」と言われる事を恐れる様になっていくのは危険なことですね。こうへい氏とのやりとりから、気づく人があれば嬉しいのですが。
プロフィール

ぶりぱぱ&まま

Author:ぶりぱぱ&まま
平成21年に親鸞会を退会しました。
会員歴は長い方と思います。
連絡先:burimama18(Gメール)

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